彰考館と史局員 |
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版本 大日本史 |
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寛文12年(1672)春、光圀は駒込屋敷の史局を小石川上屋敷故世子綱方の旧殿に移し、彰考館と名づけました。館名は、中国晋代・杜預の「春秋左氏伝序」にある「彰往考来」(過去を明らかにして将来行うべき道を考える)という語句から光圀みずから選んだものです。史局には光圀揮毫の「彰考館」の扁額が掲げられ、そのかたわらに五ケ条からなる「史館警」が示されて史館員の心得としました。修史事業には藩の招きにより全国各地から様々な学派の人々が参加、光圀時代だけでもその数は130名前後に及ぶといわれています。これは光圀の「今書生を招き、以て修撰の用に供せんとす、苟も才の録すべきものあらば、何ぞ学術の同異を問ふに暇あらんや」という学派にとらわれない基本的な方針を反映したものでした。ただ、大日本史編纂事業250年を概観する時、「本紀」「列伝」における安積覚(澹泊)、「志」「表」における豊田亮(松岡)と栗田寛(栗里)、大日本史は主にこの三人によって完成されたともいわれます。光圀の悲願は水戸藩士(安積)から水戸領内の農(豊田)商(栗田)出身者の継投によって達成されたといえるかもしれません。
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大日本史
約250年にわたる大修史事業
紀伝体
大日本史の三大特筆
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