安永3年(1774)、水戸下谷の古着屋藤田屋の次男に生れました。通称熊之介、のち与介と改め、次郎左衛門と称しました。幼少の頃から神童の誉が高く、10歳の時、立原萬(翠軒)に入門、15歳で史館小僧として彰考館に入りました。寛政3年に「正名論」、同9年に「修史始末」、同13年に「勧農或問」を著しています。その後、大日本史の編集方針をめぐって師翠軒と対立、翠軒が彰考館を去った後、文化4年、高橋広備(坦室)とともに総裁に就任しています。文政9年(1826)歿。
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紀伝体
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