万延元年(1860)8月15日、斉昭は月見の宴の後、便所で倒れました。諸資料から40代のころから狭心症の発作があったと認められるので、心筋梗塞の発作と推測されます。諡号は「烈公」とされました。
それから4年後の元治元年(1864)3月27日、藤田小四郎ら尊攘派激派(天狗派)は、斉昭の神位を奉じ、その遺志として、幕府に攘夷の実行を求め筑波山に挙兵しました。一方、5月2日には、大洗願入寺に弘道館文武諸生(学生)が集会し、反天狗の兵をあげたが、その檄文には斉昭の「告志篇」に基づき「眼前の君主」に対する礼節こそが家臣として守るべき第一の責務とありました。幕末の水戸藩内は、いずれも斉昭の「遺志」を主張する勢力によって二分されてしまったのです。現藩主慶篤の意志は無視される結果となり、水戸藩の幕末維新の悲惨な党争を止められるものは、だれもいなくなってしまいました。
徳川斉昭へ戻る
|