徳川斉昭の生涯
  改革の挫折

 弘化元年(1844)4月18日、突然斉昭に江戸召還の命が幕府からもたらされました。ついで5月6日には隠居・謹慎の処分を受け、藩政は長子慶篤(よしあつ)へ受け継がれ、支藩の高松・守山・府中各藩主が後見することになりました。さらに幕府命令により藤田東湖ら改革推進派も処罰を受け、藩政は結城朝道らが実権をにぎりました。

 これによって改革は挫折してしまいますが、その理由は幕府が示した7箇条の詰問に示されています。それは@砲連発ノ事A御勝手向御不足ノ御申立ニハ候へ共左迄ニハ有之間敷事(藩が財政不足であるといっているが、実際は違う事)B松前(北海道の松前)今以御望ミ有之哉ノ事C諸人御召抱ノ事D御宮御祭儀御改ノ事E寺院破却ノ事F学校土手高サノ事、です。しかし、その背景に門閥派と改革派の対立、そして寺社改革への反発が指摘されています。とくに寺社改革は、天保13年(1842)から本格化し、寺社奉行に「ゆくゆくは仏なき国となり、神道を引き立てることを眼目にして改革を進めよ」と指示を出したほど、徹底した廃仏の思想のもとに実施されただけに、寺院の反発も強いものがありました。

 やがて、斉昭の名誉と藩政復帰を願う運動が、農民有志のなかから起こり、それは広がりを増し10月には千束原などに数千人の農民が集まり気勢をあげました。そして、11月には半年ぶりに謹慎が解除されました。その後も、藩政復帰を求める運動は、藩内対立をはらみながらも続き、ついに嘉永2年(1849)3月、6年ぶりに藩政に復帰することが認められました。

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