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T 徳川慶喜誕生 [1837・天保8年〜1847・弘化4年] |
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1 徳川慶喜 |
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@ 誕生日 |
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A 誕生地 |
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- 江戸小石川(現在の東京都文京区後楽園付近)の水戸藩上屋敷
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B 名前 |
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- 幼名は七郎麿。父は水戸9代藩主徳川斉昭。斉昭には男子22人,女子15人,合せて37人の子供がいたが,男子は長男を別として,2番目の子供からはナンバー制で名前を付けた。慶喜は7番目の男子であるから「七郎麿」である。ちなみに11番目の子は「余一麿(よいちまろ)」、20番目は「廿麿(はたちまろ)」、21番目は「廿一麿(はたひとまろ)」という。
- 8、9歳のころ,父斉昭から名を昭致(あきむね),字を子邦(しほう),号興山(こうざん)を与えられた。名の昭致は,一橋家相続の時までの名乗りである。別に経綸堂(けいりんどう)と号し,後年静岡隠棲時代には一堂(いちどう)とも号した。
- 水戸徳川家の生まれであるが,世子(せいし:あとつぎ)以外の子はすべて「松平」姓を称した。
- 一橋家相続後,徳川」を姓とし,名を将軍家慶の一字「慶」を賜り「慶喜(よしのぶ)」と改名。
- 愛称とは言えないが,豚肉を好んで食べたところから「豚一(とんいち)様」と呼ばれた。またその性格から「剛情(ごうじょう)公」,行動から「二心(にしん)どの」と陰口された。
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C エピソード |
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D 身長・体重(成人時) |
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- 慶応3年(1867)3月の将軍慶喜と英仏蘭3国公使会見の様子を伝えた当時の倫敦(ろんどん)新聞は,「大君は身の丈け常人に異ならず」と報じている。
- 晩年慶喜に仕えた侍女の回想談には「御前(慶喜)は今のお人が想像なさるよりはるかに小柄で五尺そこそこでした」とある。
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E 乳母、養育係 |
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2 父・母 |
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@ 名前 |
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- 父は水戸9代藩主徳川斉昭(なりあき)。斉昭は幼名敬三郎,初名紀教(はるのり),字は子信(ししん),号は景山(けいざん)あるいは潜竜閣(せんりゅうかく)。諡(おくりな)は烈公(れっこう)。
- 母は斉昭の正室吉子(よしこ)。吉子は有栖川宮熾仁親王の王女で,称号を登美宮(とみのみや)という。斉昭没後は貞芳院(ていほういん)と称した。諡(おくりな)は文明夫人(ぶんめいふじん)。
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A 役職 |
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- 水戸9代藩主
- 隠居後嘉永6年(1853)幕政参与に就任(〜安政元年4月30日辞任)。安政2年8月14日海防参与に就任(〜安政4年7月23日辞任)。
- 官位は従三位権中納言(じゅさんみごんちゅうなごん)
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B 家柄 |
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- 徳川将軍家の一族で,親藩の中でも尾張家,紀伊家とともに御三家と称された。代々徳川氏を称し,将軍に最も密接な関係をもつ別格の家柄として,官位・格式などで高い待遇を受け,将軍家を補佐する役割を担っていた。
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C 烈公となぜいうのか |
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- 内に政治の行き詰まり,外に外国勢力の接近といった時代に,藩政改革を断行して藩政の安定に努め,武備を充実して外国勢力に対抗しようと努力したことから,死後諡された。
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D 文明夫人となぜいうのか。 |
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E 徳川慶喜の祖父母 |
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- 祖父は水戸7代藩主徳川治紀。
- 祖母は外山氏(実は烏丸家息女、名は補子(ますこ))。治紀没後瑛想院(えいそういん)と称す。
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3 水戸藩と水戸家 |
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@ 石高 |
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- 水戸徳川家は慶長14年(1609),徳川家康の第11子徳川頼房が水戸25万石に封じられたのを始まりとする。元和8年(1622)3万石を加増されて28万石となり,寛永18年(1641)に全領検地を行い,実質36万石の石高となった。これが公認され,表高35万石と称するようになるのは,3代藩主徳川綱條の時代である。
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A 藩領 |
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- 今日の水戸市を中心とした県北一帯と,東茨城郡・行方郡・新治郡・鹿島郡・栃木県那須郡の一部にまたがる領地を支配した。
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B 藩主 |
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初代 徳川頼房(よりふさ) |
慶長14年〜寛文 元年 |
2代 徳川光圀(みつくに) |
寛文 元年〜元禄 3年 |
3代 徳川綱條(つなえだ) |
元禄 3年〜享保 3年 |
4代 徳川宗堯(むねたか) |
享保 3年〜享保15年 |
5代 徳川宗翰(むねもと) |
享保15年〜明和 3年 |
6代 徳川治保(はるもり) |
明和 3年〜文化 2年 |
7代 徳川治紀(はるとし) |
文化 2年〜文化13年 |
8代 徳川斉脩(なりのぶ) |
文化13年〜文政12年 |
9代 徳川斉昭(なりあき) |
文政12年〜弘化 元年 |
10代 徳川慶篤(よしあつ) |
弘化 元年〜明治 元年 |
11代 徳川昭武(あきたけ) |
明治 元年〜明治 4年 |
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C 水戸藩の主な歴史 |
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- 初代藩主頼房は藩制の基礎を固めた。寛永18年(1641)の全領検地が特筆される。
- 2代藩主光圀は,善政を行って士民の信頼を深めた。また,学者を多く採用して『大日本史』の編さんをはじめ多くの文化事業を興こし,「文教の街水戸」の基礎を築いた。
- 3代藩主綱條の時代には藩財政が窮迫,その打開策として浪人松波勘十郎を採用して宝永の改革を行ったが全領一揆を引き起こして失敗に終わった。
- 6代藩主治保の時代には身分に関係なく人材を登用、藩政に活気が戻った。とくに立原翠軒は沈滞していた水戸藩の学問を再興し、その門人藤田幽谷は積極的な藩政改革を提唱した。
- 9代藩主斉昭は,藤田東湖や会沢正志斎など幽谷門下の有能な人物を起用し,腐敗停滞した藩政を一新した。これを水戸藩の天保の改革といい,その指導理念となった水戸学とともに,全国の有志に大きな影響を与えた。しかし急激な改革を喜ばない幕府は,水戸藩の保守門閥派や社寺改革で打撃を受けた僧侶らと結託、弘化元年(1844)斉昭や東湖らを処罰した。これがため藩論は分裂して政争が続き,改革派中の激派は桜田門外の変を起こし,時代の転機をきたした。斉昭の死後,藩内の政争はますます激化,天狗党の筑波山挙兵により多くの有能な人物を失い,混乱のうちに明治維新を迎えた。
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D 城下町・水戸 |
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- 水戸城は江戸氏、次いで佐竹氏の時代に拡張・整備され、水戸徳川家の時代になって、城の大修築と城下町の整備拡張が行われた。台地地形を巧みに利用し,那珂川,千波湖を防御線として形づくられた水戸城の特異な点は,石材を使用していないことである。近くに城普請に適した石材の産出がなかったこと,費用の軽減を計ったことなどが考えられるが,時代が太平の世に向かっていたことも関係あるのではなかろうか。県庁前の空堀と土塁は、いまになお在りし日の水戸城をしのばせてくれる文化遺産である。
- 元和8年(1622)ころから,台地の東南・千波湖東岸・桜川の岸辺一帯の埋立てが行われ,田町と称した。寛永元年(1624)から2年にかけて,大町・中町・南町の町人を移し,下町を形成した。これを「田町越(たまちごえ)」という。
- このことによって上町は武家屋敷が中心となり,下町は町屋敷となり領内商業の中核を形成することとなった。
- 元禄3年(1690),町名改定と境界整理を行った。肴(さかな)町・紺屋町・桧物町・青物町・塩町・鉄砲町・鍛冶町・白銀町(元白銀町)・大工町・元山町(木挽町(こびきちょう))・馬口労町(ばくろちょう)・鷹匠町・鳥見町(とりみちょう)・代官町など,城下町ならではの町名が名付けられた。いまに残る泉町,金町,向井町、南町などの町名もこの時名付けられたものである。
- 寛文2年(1662)から3年にかけて,埋立地のため悪水に苦労していた下町住民の飲料水供給を目的とする笠原水道がつくられた。
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E 江戸藩邸(上・中・下屋敷) |
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上屋敷 |
小石川 |
9万9753坪 |
中屋敷 |
駒込 |
5万4200坪 |
中屋敷 |
目白 |
9万7000坪 |
下屋敷 |
本所小梅 |
1万8500坪 |
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F 参勤交代 |
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- 水戸藩は参勤交代は免除され,常に江戸に居住した。これを「定府制(じょうふせい)」という。
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G 家紋 |
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H 水戸学 |
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- 水戸藩の学問は2代藩主光圀の時代に盛んとなった。その伝統を受け継ぎ,さらに時代の進展・状況に応じて,藤田幽谷,その門下生の会沢正志斎・藤田東湖,そして斉昭らによって形成されたのが水戸学である。水戸学は斉昭の天保の改革(藩政改革)の指導理念であり,当時は「天保学(てんぽうがく)」とも呼ばれた。その基本となる考え方は「尊王攘夷(そんのうじょうい)」理論であった。
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I 弘道館 |
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- 斉昭が人材育成を目指して建設した水戸藩の学校。天保12年(1841)8月1日仮開館,安政4年(1857)5月9日本開館。敷地5万4000坪。施設は文館,武館,医学館があり,いわば総合大学ともいうべき内容をもち,他藩に例をみない充実した藩校であった。教授陣には,青山延于・会沢正志斎・青山延光・青山延寿・大内玉江などがいた。幼い慶喜が登館して学習に励み,将軍辞職後恭順・謹慎の地とした慶喜ゆかりの施設。現在は正門と正庁(学校関係の政務をとったところ)を残すのみである。
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J 偕楽園 |
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- 天保13年7月,斉昭が開設した公園。「偕楽」命名の趣旨は,園中に建つ「偕楽園記」に「衆と楽しみを同じくする(偕楽)」とあることによって明らかである。開設当時200種あまり,数千株の梅が植えられ,今なお梅の公園として,岡山の後楽園,金沢の兼六園と並び,日本三名園の1つに数えられている。幼い慶喜が馬術の練習で訪れたことが多かったことだろう。
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K 藩内の主な産物 |
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- 特産物としては,こんにゃく・たばこ(水府煙草)・和紙(西の内紙など)がある。
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L 藩内の主な人物(武士,商人,農民) |
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武士 |
立原翠軒
(たちはら すいけん) |
水戸藩学問中興の祖 |
小宮山楓軒
(こみやま ふうけん) |
民政家 |
藤田幽谷
(ふじた ゆうこく) |
水戸学の創始者 |
会沢正志斎
(あいざわ せいしさい) |
尊攘志士のバイブルといわれた「新論」の著者 |
藤田東湖
(ふじた とうこ) |
政治家,学者。斉昭のブレーン |
戸田忠敞
(とだ ただあきら) |
政治家。斉昭のブレーン |
青山延光
(あおやま のぶみつ) |
学者。斉昭の信任厚かった |
豊田天功
(とよだ てんこう) |
学者。斉昭の対外論のブレーン |
武田耕雲斎
(たけだ こううんさい) |
家老、尊王攘夷家、天狗党領袖 |
藤田小四郎 |
天狗党筑波山挙兵の指導者 |
高橋多一郎・金子孫二郎 |
桜田門外の変首謀者 |
結城寅寿
(ゆうき とらじ) |
家老、保守門閥派の領袖。斉昭に敵対した |
市川三左衛門 |
保守門閥派の領袖。諸生派を率いた |
商人 |
薄井友衛門 |
領内北部の鷲子村の豪商。和紙の流通で財をなした |
木内兵七 |
那珂湊の豪商。海運で財をなす |
大内清衛門 |
那珂湊の豪商。海運で財をなす |
農民 |
桜岡源次衛門 |
久慈郡袋田村の豪農。桜田門外の変の援助者 |
加倉井砂山
(かくらい さざん) |
東茨城郡成沢村の人。日新塾を経営し幕末維新期に活躍した俊秀を育てた |
興野介九郎 |
日新塾に学び、那珂湊の戦いに尊攘派として参加 |
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M 御三家(尾張藩、和歌山藩) |
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初代 義直
(よしなお) |
米の増産,学問の興隆に努めた |
6代 継友
(つぐとも) |
8代将軍位をめぐって吉宗と対立 |
7代 宗春
(むねはる) |
将軍吉宗の倹約政治に対抗して積極的な商業政策を展開,幕府から隠居謹慎を命ぜられた |
9代 宗睦
(むねちか) |
藩政改革を実施。治水工事,新田開発,藩校創建など施策に見るべきものが多い |
14代 慶恕
(よしくみ) |
一橋派に属し,安政大獄で隠居を命ぜられる。のち第1次長州征討の総督に任じられたが,基本的には勤王派で,慶応3年の王政復古クーデターに参加している。佐幕派の会津藩主松平容保(かたもり),桑名藩主松平定敬(さだたか)は実弟) |
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初代 頼宣
(よりのぶ) |
藩制の基礎を築いた |
5代 頼方
(よりかた) |
倹約政策を中心とする藩政改革を実施。名を吉宗とあらため,8代将軍となる |
10代 治宝
(はるとみ) |
倹約、学問を奨励するなど藩政の刷新に努めたが,旱魃による藩政史上最大の百姓一揆が起こり,責任をとって隠居した |
13代 慶福
(よしとみ) |
のちの14代将軍・家茂 |
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- 相違
領地は尾張藩61万石,和歌山藩55万石で,水戸藩の35万石を超えている。
藩主の官位官職は尾張,和歌山両藩とも従二位権大納言を極官とするが、水戸藩は従三位権中納言を極官とする。
同じ御三家とはいえ,領地・官位とも水戸藩は一段低かった。
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- 天下の副将軍
幕府の職制にはない俗説である。水戸藩は領地・官位とも尾張,和歌山両藩より一段低くされていたが,参勤交代の義務がなく,定府制であった。このことが水戸家は将軍の万一に備えるためと一般に解釈され,しかも2代藩主徳川光圀の名君としての名声が加わり,いつしか水戸家は「天下の副将軍」と伝えられるようになった。俗説ではあるが,水戸藩の家臣はこれを強く信じていた。幕末期に斉昭が積極的に幕府政治の改革に係わっていった背景にも,水戸家は天下の副将軍という自負があったことは間違いない。
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N 水戸家の家系 |
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4 水戸家と徳川慶喜 |
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@ 徳川慶喜の兄弟 |
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水戸9代藩主 斉昭 |
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賢 姫(宇和島藩主伊達宗城と婚約中没) |
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色許姫(早世) |
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本岐姫(欽子。水戸家家老山野辺義正室) |
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鶴千代麿(徳川慶篤・水戸10代藩主) |
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二郎麿(早世) |
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恕 姫(早世) |
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唯 姫(早世) |
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三郎麿(早世) |
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四郎麿(早世) |
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松 姫(盛岡藩主南部利剛室) |
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庸 姫(早世) |
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五郎麿(鳥取藩主池田慶栄の養子,藩主慶徳となる) |
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六郎麿(早世) |
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七郎麿(一橋家相続,徳川慶喜。15代将軍) |
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八郎麿(川越藩主松平典則の養子,藩主直侯となる) |
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九郎麿(備前岡山藩主池田慶政の養子,藩主茂政となる) |
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一葉姫(早世) |
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八代姫(仙台藩主伊達慶邦室) |
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十郎麿(石見浜田藩主松平武成の養子,藩主武聰となる) |
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静 姫(早世) |
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余一麿(喜連川藩主喜連川宣氏の養子,藩主縄氏となる) |
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余二麿(早世) |
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余三麿(早世) |
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余四麿(昭訓。京都守衛中没) |
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余五麿(早世) |
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茂 姫(貞子。有栖川宮熾仁親王妃) |
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余六麿(肥前島原藩主松平忠愛の養子,藩主忠和となる) |
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余七麿(常陸土浦藩主土屋寅直の養子,藩主挙直となる) |
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愛 姫(下総高岡藩主井上正順室) |
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久 姫(早世) |
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余八麿(徳川昭武。水戸11代藩主) |
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余九麿(会津藩主松平容保の養子,喜徳という) |
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廿 麿(早世) |
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廿一麿 |
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寧 姫(早世) |
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廿二麿(水戸支藩守山藩主松平頼升の養子,頼之という) |
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正 姫(鹿野藩主池田徳澄室) |
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5 幼少期のしつけ・教育 |
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@ 養育担当者 |
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- 傅役は井上甚三郎
- 教育掛りは,文学を会沢正志斎,青山延光,武術のうち砲術を福地広延,弓術を佐野四郎右衛門,剣術・水泳を雑賀八次郎,馬術を久木直次郎が担当した。
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A 養育の方針・特徴 |
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- 斉昭の,七郎麿傅役井上甚三郎宛の書に「庶子は養子に遣わすことがあるのだから,文武共にしっかり学ばせよ。柔弱にして文武の心得がなければ,水戸家の恥となる。水術,弓術,馬術の三科はおろそかにするな。とくに馬術は馬場だけでは用に立たない。山坂を乗りまわすことができるよう,度々好文亭や仙坡のあたりを廻れ。湊などへも手軽に附の者どもと遠馬に出るようにするがよい。但し子供始め腰弁当とすること」とある。
- 養育の基本は質実剛健,実生活に役立つ学問(実学)にあった。
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B 養育の場所 |
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- 生まれた翌年の天保9年水戸に移され,弘化4年(1847),一橋家相続の内命を受けて出府するまでのおよそ9年間,水戸の地で養育された。
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C 徳川慶喜の性格(長所・短所) |
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- 利発,頑固,怜悧(れいり)であったという。
- 最後までやりぬくねばり強さには欠けた。
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D なぜ水戸で養育されたのか。 |
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- 江戸の華美な風俗が身にしむことを防いで文武の十分な修業をつませ,藩内を自由に歩きまわらせることによって下情に通じさせたい,という父斉昭の願いがあった。
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E 当時の江戸の風俗はどのようであったか。 |
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- 奢侈(しゃし=ぜいたく),頽廃(たいはい=風紀の乱れ),賄賂横行。武士は泰平に慣れ柔弱(にゅうじゃく)にして,財力のある商人の前に頭を垂れる有様。
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F 徳川慶喜はどのような勉強,遊びをしたか。 |
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- 起床後ただちに四書五経の復読。近侍の士が髪を結いながらその間違いを正す。
- 終わって朝食。
- 四つ時(午前10時)まで習字。
- それより開館間もない弘道館(天保12年 仮開館)に登館して教官より四書五経の素読の口授を受け,さらに館中文武の諸局に臨んで諸生らの修業のさまを見学。
- 正午に自室に帰り昼食。
- 午後は習字,復読。
- 夕方になってようやく遊びの時間が与えられる 。
- 遊びは、「軍(いくさ)よ火事よ」と勇ましい遊びに熱中した。かなりの乱暴でいたずら者であった。
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