延享元年(1744)、彰考館管庫・立原蘭渓の子として生れました。号は此君堂また東里。はじめ谷田部常徳(東壑)に、ついで徂徠学派の田中江南に学びました。宝暦13年江戸彰考館入り。江戸では文章を大内熊耳、唐音を細井平洲、書を松平楽山に学びました。この時期、久しく停滞していた修史事業を復活させ軌道にのせる役割を果しています。しかし修史の編集方針をめぐって高橋広備(坦室)・藤田一正(幽谷)らと対立、享和3年彰考館を去ることとなります。文政6年(1823)歿。
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約250年にわたる大修史事業
紀伝体
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