慶長5(1600)年,関ヶ原の戦いが起こった。豊臣秀吉の子秀頼をもりたて政権を維持しようとする石田三成ら西軍と,天下を手中に治め政権を握らんとする徳川家康ら東軍の天下分け目の戦いであった。
佐竹義宣は,この時明確な態度を示さなかった。残っている話として,三成と懇意であったため西軍にくみしたという話や上杉景勝とともに家康を挟撃する手筈になっていたという話,家臣の東義久に兵300をつけ徳川秀忠のもとにつかわしたという話などがあるが,何れも明瞭ではない。むしろ戦況がどのように転んでも対応できるように戦いを冷静に分析していたともいえる。
家康ら東軍の勝利後,義宣は家康や秀忠のもとに使いを送り勝利の賀意や二心なきことを伝えるべく奔走するであった。
|