西山
徳川光圀像(一部) 立原杏所筆
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 元禄3年(1690)10月、63歳の光圀は、家督を嗣子綱條に譲り、致仕隠退します。そして翌元禄4年5月、久慈郡太田村の西山の麓に完成した隠居所(西山荘)に移り住み、ライフ・ワークの大日本史編纂事業にうちこむと同時に、領内巡遊、領民との交遊など悠々自適の生活がはじまります。この年10月には、光圀は瑞龍山に寿蔵碑を建立しました。その碑の裏面に彫られた光圀自作の文章が「梅里先生碑陰文」で、これは簡潔な光圀の自叙伝ともいうべきものです。元禄7年(1694)2月、光圀は将軍綱吉の招きにより、隠退後はじめて江戸にのぼり、4月には綱吉の前で「大学」を講義しました。この江戸滞在中に光圀の生涯を考える時、最大の謎とされる藤井紋太夫誅殺事件がおきています。西山隠棲9年
  半余、元禄13年(1700)12月6日、光圀は73歳をもってその生涯をとじ、「義公」と謚されました。この時、江戸の町中には「天カ下二ツノ宝ツキハテヌ佐渡ノ金山水戸ノ黄門」という落首があったといわれていま
す。

 

 ※より徳川光圀について知りたい方へ

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