9月に秋田の湊城に入った義宣は,築城に乗り出すこととなり,候補地を探したところ久保田(秋田市)に決定した。普請奉行を渋江膳政光と梶原美濃に命じ,慶長8(1603)年5月から築城に着工し,翌年8月に完成をみ,久保田城と名付けられた。
久保田城は,標高およそ40mの台地に築かれた。城は本丸と二の丸を完全に堀で囲んでいる。本丸は東西65間(約118m),南北120間(約218m)の長方形型で,本丸より一段低くなっている二の丸は東西39間(約71m),南北204間(約371m)の細長型で,役所などがおかれていたという。久保田城の特色は,城の象徴ともいえる天守閣と石垣がなかったことである。同時に城下町の整備にも取りかかり,内町は寛永8(1631)年頃までに整備がほぼ終わったという。
城地は明治29(1896)年,秋田県に移管され,造園業の大家長岡安平によって公園として整備された。昭和59(1984)年,秋田佐竹家の意志で秋田市へ寄贈され,以降千秋公園として市民や観光客に親しまれている。
|