徳川斉昭の生涯
  海防参与就任

 古代から政治的にも文化的にも範としてきた大国である中国(清)が、イギリスに敗れたという衝撃は、当時の日本にとって想像を絶するものでした。そうしたなか、嘉永6年(1853)6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航、大統領の国書を渡し通商をもとめてきました。このとき、老中阿部正弘は、斉昭に意見を求めています。斉昭は「衆評の上、決めるがよかろう」という意見を呈しました。ペリーは艦隊の一部を江戸湾内に侵入させるという示威行動を行い、浦賀を退去していきます。22日には将軍家慶が死去するという状況のもと、7月3日、斉昭は海防参与に任命され、未曾有の危機に対応していくことになりました。早速、積極的な意見を幕府に進言していくだけでなく、12月には水戸で鋳造した大砲74門を幕府に献上しています。

 翌年1月14日、ペリーは再び浦賀に来航しました。このときも艦隊7隻がが内海(江戸湾内)に侵入するという示威行動をとりましたが、幕府の回答が煮え切らないのをみると、大師河原まで艦隊を侵入させ、その結果、江戸城内は大騒ぎとなりました。このとき斉昭は求めに応じて登城、井伊らを前に打ち払いを主張しましたが受け入れられず、翌日には長崎での石炭補給、そして3年後をめどにこちらから船を出して交易を始める、という妥協案を提示しています。幕府は通商問題を先延ばしにしたまま、3月3日「日米和親条約」を締結します。この間、斉昭は3度にわたり海防参与辞任を請いますが、幕府は、そのたびに慰留につとめました。

 安政2年(1855)8月には、改めて幕政への参与を命じられたが、10月2日、江戸を襲った大地震のために、藤田東湖、戸田忠敬を失うという痛手を負いました。

    徳川斉昭へ戻る

 


 

 

 

  

 

 

 

 

 

 


茨城県立歴史館
〒310-0034 茨城県水戸市緑町2-1-15
TEL:029-225-4425/FAX:029-228-4277
お問合せ
Copyright(C) 2006 Ibaraki Prefectural Museum of History All Rights Reserved.