門閥派の重鎮として6代冶保から9代斉昭の4代にわたって仕えました。天保5年(1834)には用達になりましたが,しだいに斉昭の改革に批判的となり,同10年に隠居させられました。篆刻や書道をよくし,多くに人達から揮毫を求められました。