Z徳川慶喜静岡へ謹慎する
[1868・慶応4年(明治元年)〜1897・明治30年]
   
1 いつ静岡へ来たか。
 
  • 慶応4年7月23日夕,駿府(静岡)の宝台院に入る。
   
2 誰がついてきたか。
 
  • 水戸から清水港までの行程の付き人は不明。  
  • 清水港には,精鋭隊の松岡万が隊士50人余を率いて宝台院まで警衛。
 
3 水戸から静岡への移動ルートはどこか。
 
  • 慶応4年7月19日、水戸弘道館を発す。
  • 19日夕,下町より船で那珂湊に出,祝町から徒歩で鉾田に至り,船で銚子に出る。
  • 21日,波崎より蟠龍艦(ばんりゅうかん)に乗船。
  • 23日,駿河清水港に上陸,その夕宝台院に入る。
   
4 どのような交通手段で行ったか。
 
  • 3の移動ルート参照。
   
5 どこの港を利用したか。
 
  • 3の移動ルート参照。
   
6 静岡のどこにいたか。 
 
  • 水戸から静岡に移ったのち1年余は宝台院に居住。  
  • 明治2年9月28日謹慎解除。10月5日静岡の紺屋町の元代官屋敷に移る。
  • 明治21年3月6日,静岡の西深草町227番地の邸に移転。10年余居住。
   
7 どのようなことをしていたか。
  @ 生活の様子
 
  • 謹慎解除後も時局・世事に係わることは避け,もっぱら趣味の生活を送った。 
  A 家族
 
  • 夫人美賀子,側室須賀(一色氏)・幸(中根氏)・信(新村氏)とともに住み,10男11女を儲けた。
  B 趣味
 
  • 油絵,狩猟,放鷹(ほうよう),打毬(だきゅう),写真撮影。
   
8 将軍家との関係はどうなったか(当主の相続等)
 
  • 明治元年閏4月29日,勅諚により宗家(将軍家)徳川家は,田安亀之助(家達と改名)が相続。
   
  徳川慶喜の経済について(金禄公債はもらったか。いくら、どう使ったか)
 
  • 徳川宗家から定期的に「御定金」が送られてきた。明治30年には手形1,300円送金とある。  
  • 明治13年3月27日に「旧公債証書額面拾三円下賜」(茨城県立歴史館蔵「一橋徳川家文書」写)の記載がみえる。  
  • 「廿年度より廿四年度まで〆額面壱万七千五百五拾円」(茨城県立歴史館蔵「一橋徳川家文書」書上)の記載がみえる。
   

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