U徳川慶喜一橋家を継ぐ[1847・弘化4年〜1866・慶応2年]
   
1 一橋徳川家
  @ 石高
 
  • 10万石(賄料)
 
  慶喜公
   
  A 領地
 
  • 延享3年(1746)9月 武蔵・下野・下総・甲斐・和泉・播磨の6ケ国内
  • 幕末期には武蔵・下野・下総・越後・摂津・和泉・播磨・備中の8国22郡に散在
  B 主な人物 家主
   
 
 
初代 宗尹(むねただ:8代将軍吉宗4男)
2代 治済(はるさだ)
3代 斉敦(なりあつ)
4代 斉礼(なりのり)
5代 斉位(なりくら)
6代 慶昌
7代 慶寿
8代 昌丸(まさまる)
9代 慶喜(よしのぶ:宗家を嗣ぐ。15代将軍) 
10代 茂栄(もちはる)
11代 達道(さとみち)(伯爵)
   
 
  • 慶喜家臣(幕末維新期を中心に)
 
 
平岡円四郎
(旗本)
文政5年生まれ,旗本平岡家養子。嘉永6年慶喜の近侍となる。文久3年一橋家用人。慶喜の股肱の臣と評された。元治元年家老並となったが,水戸藩士に暗殺される。
黒川嘉兵衛 浦賀奉行支配組頭から一橋家用人見習いとなる。京都にあって慶喜の手足となって働く。
梅沢孫太郎 文化14年生まれ,元水戸藩士。文久2年,慶喜に従い上京。一橋家雇い,用人心得。慶応2年目付,大政奉還後も京都に残る。のち慶喜に従い駿河で慶喜家家扶となる。
渋沢栄一
(武蔵国血
洗島村出身)
天保10年生まれ。尊王攘夷運動に参加。平岡円四郎に見込まれ一橋家に仕え,のち幕臣となる。慶応3年徳川昭武に従い渡仏。維新後は第一国立銀行創立など,明治期の実業界の指導的役割をはたした。慶喜研究の基本的文献となる『徳川慶喜公伝』を編さんした。
原市之進 天保元年生れ。水戸藩士。文久3年上京、一橋家に召し抱えられる。慶喜の用人となり,次第に才覚を発揮。最後は奥番頭奥詰。薩長諸藩から嫌われ慶応3年幕臣に暗殺される。
   
  C家格
 
  • 三卿の一つ。代々刑部卿・民部卿・兵部卿を称す
  D 家紋
 
  • 三ッ葉葵(丸に葵の巴紋)
  • 旗印:葵紋に一橋,亀甲に一橋,「一」の一字
  E どのような家か。
 
  • Cに同じ。U−5参照。家臣団は幕臣(御付人)、幕臣(御付切の人)、家臣(御抱入の者)
   
2 なぜ徳川慶喜は一橋徳川家を継いだか。
  @ 誰が一橋家を継ぐことを推進したか。
 
  • 当時の一橋家にとって,身近で血統的にもふさわしい人物が,三家・三卿の中で慶喜以外にいなかった。将軍家慶が望んだ。家慶にとって慶喜は甥(家慶正夫人と斉昭正妻=慶喜実母は、共に有栖川宮家出身の実の姉妹)である。
  • 時の筆頭老中阿部正弘の賛意があった。
  • 当時、松平七郎麿であった慶喜は,幼少から英明のうわさが広く流布していた。
  A どんな障害があったか。
 
  • 大奥で父斉昭の評判が悪かった。
  • 斉昭の政敵が,有力大名や幕臣に存在していた。
 
3 一橋徳川家でどのようなことをしたか。
  @ 徳川慶喜の役職
   
 
 
弘化4年 従三位左近衛権中将兼刑部卿
安政2年 参議
文久2年 将軍後見職 権中納言
文久3年 朝議参与
元治元年 禁裏守衛総督・摂海防禦指揮役
   
  A 事蹟
 
  • 将軍後見職の時,開国のやむを得ない事を知る慶喜は,攘夷を要求する朝廷の意向をなんとかやわらげようと努力したが,すでに幕府は攘夷を約束しており,どうしようも無かった。横浜鎖港(条約に基づく横浜の開港を取消す)問題,生麦事件(薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件)賠償金支払問題などに関与,諸外国・朝廷・幕府の間に立って苦慮した。
    朝議参与は幕府権力を否定する一面を有していた。慶喜は文久3年12月晦日に参与を命じられ,翌元治元年3月9日に辞任している。この間2月16日の参与会議で,慶喜は幕府を守るために横浜鎖港の不可を激しく主張,参与会議を解体させた。
    元治元年3月25日,将軍後見職を辞任した慶喜は,禁裏守衛総督・摂海防禦指揮役に就任した。この時の重要課題は諸外国が要求する兵庫港の開港問題であったが,慶喜はその解決に努力,開港時期延長の約束をかちとっている。そしてこの時期,禁門の変で活躍し(U−6−C参照),天狗党事件(U−6−D参照)で苦い決断を迫られている。
   
  4 一橋家相続当時どのような状況だったか。
  @ 幕府
 
  • 諸外国が開国を求め、さまざまな方法で日本へ接近してきた時期。幕府はその対応に苦慮していた。強力な主導権をもった将軍が不在で,老中たちも各大名への強い指示ができなかった。
  A 諸藩
 
  • 水戸藩では斉昭が謹慎中で,わずかに阿部正弘との交流が続いていた時代。
  • 各藩の藩主,家臣たちも開国問題や幕政の方向について,それぞれ多くの意見を持っていたが,それを藩政や幕政に生かしきれなかった。
  B 外国
 
  • なんとかして開国を国是(国の方針)にしてほしいと,さまざまな方法で接近してきた。
  • 特にオランダは国書を提出し,世界の時勢を考え,開国容認の方策を具申してきた。
 
5 御三家と御三卿
  @ 類似
 
  • 将軍家から分家,徳川氏を名乗る。将軍の継嗣(けいし=あとつぎ)となる資格がある。他大名より高い格式と権威があった。
  A 相違
 
  • 御三家:大名として独立。領地や家臣団の構成も他大名と同様であった。
  • 御三卿:将軍家の厄介(やっかい=身内)という扱い。家臣の多くは幕臣から付属させられた者であり、領地の支配も幕府の管理下にあった。
  B なぜつくられたか。
 
  • 将軍の補佐・補強のため。徳川政権の維持と徳川氏の全国制覇を続けるため。
 
6 当時の世相,事件について(桜田門外の変,天狗党事件等)
  @ 将軍継嗣問題と開国問題
 
  • 第13代将軍家定の後継者をめぐり,慶喜を推す一橋派と,紀州藩主徳川慶福を推す南紀派が,それぞれ斉昭と井伊直弼(いいなおすけ)を旗頭に対立した。また通商条約の締結をめぐり,勅許を必要とする斉昭派と開国後に勅許を求めた直弼が激しく対立し,朝廷をめぐって激しい政争を行っていた。
  A 安政の大獄
 
  • 井伊直弼が大老に就任し,将軍継嗣と開国問題で窮地にたった斉昭ら攘夷派は,その立場を挽回せんと天皇の命令書(勅許)を受けることに成功する。幕府の体面を潰されたとする直弼は,勅許降下に関係した者を全国的に弾圧した。安政の大獄という。
  B 桜田門外の変
 
  • ・安政の大獄において,多くの犠牲者を出した水戸藩の関係者は、その元凶を暗殺し,幕政の転換を願い,万延元年3月3日,上巳(じょうし)の節句で江戸城へ登城する直弼一行を襲撃し,暗殺した。
  C 禁門の変
 
  • 攘夷実行の藩論を持つ長州藩は,その先駆けをなすとして下関で外国船砲撃事件などを起こした。だが,すでに攘夷の不可能を知っていた公家,大名たちは,文久3年8月18日「宮中ク−デタ−」を実行し,長州勢力を京都から追い払った。元治元年7月19日,再び主導権を握ろうと長州勢が京都御所めがけて武力進出を始め,禁裏守衛総督の慶喜は指揮官として大活躍した。戦闘の激しかった蛤門(禁門)の名を取ったこの事件で,長州勢は朝敵となった。慶喜はその時の活躍を義母徳信院へ伝えている。
  D 天狗党事件
 
  • 水戸藩の尊王攘夷派(以下尊攘派と称する)で激派に属した人々が,自ら攘夷実行を旗印に「天狗党」を名乗って元治元年3月筑波山に挙兵し,諸国から多くの同志が馳せ参じた。大勢力となった天狗達が行動を起こし始めると,幕府はこれを危険な事件とみ,正規軍と諸藩連合軍で追討を決定した。水戸藩の保守門閥派がこれに同調したため,尊攘派が反発して天狗党に理解を示し,やがて一緒に行動し,水戸領内は完全に二分されて武力抗争となった。10月ころまでには追討軍が勝利し,尊攘軍の主力は幕府に降った。しかし一部の者たちは,武田耕雲斎を大将に,京都にあった慶喜に嘆願せんと西上を始めた。武田と慶喜は数年前から親しく交際していたため,慶喜の理解が得られるとしたが,国政全般から判断して慶喜は彼らを押さえることに決した。このため西上軍は越前敦賀付近で金沢藩に降伏した。
   

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