@ 阿部正弘 |
- 備後福山藩7代藩主。弘化2年老中首座。斉昭が謹慎中親しく書簡を交換し,お互いの胸中を述べあった。これが『新伊勢物語』として水戸藩に残された。慶喜擁立に賛成した大名。
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A 井伊直弼 |
- 彦根藩主。慶喜の父斉昭と将軍継嗣問題,開国勅許問題で激しく対立した。慶喜は父の立場にたって行動したが、直弼の思想も理解できた。安政の大獄を断行,以後尊攘派から狙われ,桜田門外で旧水戸藩士らに襲撃され,即死する。
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B 島津久光 |
- 薩摩藩主島津斉彬の弟。慶喜の理解者,慶喜の将軍後見職就任を運動した。公武合体派の中心。
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C 松平慶永 |
- 田安家に生まれ,福井藩を継ぎ16代藩主となる。号を春嶽という。ペリ−来航後国防と倹約を唱えるが,開国やむなしの考えを持っていた。将軍継嗣問題の時は慶喜擁立派で活躍。井伊直弼からは謹慎処分を受けるが,のち政治総裁職となり,公武合体に努力した。元治元年からは京都で活躍,慶喜と微妙に立場を異にし始めた。明治政府の高官を歴任した。
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D 松平容保 |
- 美濃高須藩に生まれ,会津藩を継ぐ。文久元年幕政参与,同2年京都守護職。新選組を指導する。会津藩は薩長討幕軍に対し徹底抗戦を主張,その暴発を恐れた慶喜は,大坂城退去にあたって容保とその弟桑名藩主松平定敬を側から放さず,江戸へ引き連れて帰った。
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E 西郷隆盛 |
- 鹿児島藩士。文政10年生まれ。島津斉彬に仕え,その命を受け諸藩有志と国事関係で交際を持つ。一時藩政の中心から外れるが,やがて薩長連合,王制復古・討幕派の中心人物となり,慶喜と対立した。東征大総督参謀として勝海舟と会談,江戸城無血入城を実現した。明治政権の実力者となるが「征韓論」で下野,西南戦争を起こし自刃。
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F 大久保利通 |
- 鹿児島藩士。天保元年生まれ。西郷と親交深く,改革派の中心人物となる。西郷と共に反幕府派として行動した。岩倉と結び討幕の指導者として活動,慶喜と対立した。新政権の中心であり要職を歴任。明治11年暗殺される。
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G 勝海舟 |
- 幕臣。文政6年生れ。幕府の軍艦奉行などを経て政治的にも活躍した。維新時,徳川家の継続,慶喜の助命,江戸城無血開城などに活躍。新政府の高官も務めた。慶喜の10男を養子にする。
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H 榎本武揚 |
- 幕臣。天保7年生れ。オランダ留学後幕府海軍の中心人物となる。慶喜の新政府に対する恭順姿勢に反対,軍艦を率いて江戸湾を脱走,北海道に独立政府を建て,諸外国に認められた。函館五稜郭に篭もり新政府軍と交戦するが敗れ,帰順。のち明治政府の諸大臣を歴任した。
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I 山岡鉄舟 |
- 幕臣。天保7年生れ。文久2年浪士取締役。明治元年西郷隆盛と駿府で会い,徳川家救済と江戸城開城を交渉する。維新後静岡藩に出仕(しゅっし),明治4年茨城県権参事となり,のち宮内庁に勤務。
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J 旧幕臣たちをどう思っていたか。 |
- 公式にどう思ったかを発言した記録はない。初期には幕府内の開明派官僚川路聖謨(としあきら),岩瀬忠震(ただなり)らにしばしば相談の機会を持ち,その姿勢を決めていた場合があったようである。しかし,時勢が変化し,諸外国と交渉したり,孝明天皇に近く仕えるに従い,本心を打ち明けたと思われる幕臣は見あたらない。
- 将軍の位に最も遠い位置にあった水戸の出身,しかも幕府内の保守派から敬遠されていた斉昭の子であったこと,朝廷の圧力で将軍後見職になったこと,そういったことから,慶喜自身は幕権の強化に努力したが,閣老をはじめとする幕臣からは常に疑念の目をもってみられていた。
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