水戸藩では、領内各地に「郷校」「私塾」があり、そこで尊攘思想にふれた人々が、新しい世の中をめざして運動に参加していきました。
その指導的役割を果たしたのが、幕藩体制の矛盾を農村のなかで実感していた庄屋・組頭などの上層農民=村役人層でした。水戸城下北方の増井村(現・城里町)の庄屋・袴塚周蔵もそのひとりでした。
袴塚周蔵がはじめて江戸に上がったのは、弘化元年(1844)、斉昭雪冤運動のためでした。これは当時、幕府から「致仕謹慎」を命じられていた水戸藩主徳川斉昭の処分取消しをもとめる運動で、周蔵のほかにも多数の人々が参加しました。
その後、周蔵は村役人をつとめるかたわら尊攘運動に奔走します。また、元治元年(1864)の天狗党事件には、増井村付近からも周蔵の影響を受けた多数の人々が筑波挙兵に加わりました。
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