明から亡命した禅僧で,長崎に滞在中の元禄4年(1691)光圀に迎えられて水戸の天徳寺(天徳寺が移転した後祇園寺と改号)の住職となり,森尚兼らを指示しました。詩文・書画・篆刻・七弦琴などの諸技に優れ,信仰の面ばかりではなく中国の新しい文化を幅広く伝え,光圀の深い信頼を得ました。