明の遺臣・学者で名を之瑜といい,万治2年(1659)筑後柳川藩の安東省菴の勧めで長崎に居留した後,寛文5年(1665)光圀に招かれました。光圀は,先生として仰ぎ,藩政や学問思想に大きな影響を受けました。安積澹泊らも育て,修史にも貢献しました、没後は,瑞龍山(常陸太田市)に埋葬されました。