関城・大宝城・駒城の攻防(筑西市・下妻市)
関城跡(国指定史跡)   
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  暦応2年(延元4年,1339年)高師冬による駒城攻撃が行われ,激しい攻防戦が続き翌暦応3年(興国元年,1340)駒城は奇襲攻撃を受けて落城しました。暦応4年(1341年)北畠親房が小田城から関城に,春日顕時が興良親王を奉じて大宝城に入り,以後,両城は東国における南朝方の拠点となり、こののち関城・大宝城は高師冬を総指揮とする北朝軍の猛攻を受けることになりました。康永元年(興国3年,1342年)になると激しい攻防戦が繰り返され,親房はたびたび白河の結城親朝に書状を送って来援を促しましたが援軍は来ず,康永2年(興国4年,1343年)にはいると攻防はますます激しくなり,関・大宝両城は苦しい籠城を続けていました。兵糧の欠乏が甚だしく,苦戦に至ったこの時期に,頼みとしていた白河の結城親朝は北朝方に下ったことや,結城直朝・関宗祐・宗政らが討死にしたことなどから,同年11月11日関城が落ち,続いて12日大宝城も落城しました。この結果,北畠親房は常陸から吉野に帰り,常陸における南北朝内乱は事実上ここに終わりをつげました。

 

 

 

 

 

 


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