(1)佐竹義舜から義昭の時代

 佐竹義舜(よしきよ)は,永正元(1504)年,妻の生家である岩城氏の力を借り,太田城を攻め奪還した。山入義藤の子氏義は,本拠の山入城に撤去したが捕らえられて処刑された。これにより佐竹宗家四代100年に及ぶ山入の乱は終わりを告げたのである。山入の乱を平定した佐竹義舜は,家法二十三ヶ条を制定し,軍事力の強化を図った。山入の乱の際,周辺の諸氏から侵略され失った所領の回復に努めた。特に依上保(久慈郡大子町)は,山入氏の所領であり,結城氏の所領になっていたものを奪い返している。

 義篤の代になっても,一族の高久義貞や弟の小場義元との争いがあり,佐竹氏は安定しなかった。

 次に義昭が天文14(1545)年,11歳で家督を継いだが,幼いということもあり補佐する一族として,太田城の三方に屋敷があった南家,北家,東家が創設され,南義里,北義廉,東義堅が交代で補佐にあたった。義昭が成長した頃には,佐竹氏は実力を備えつつあり,対外的には国外の下野宇都宮にも出陣し,家臣の壬生綱雄に居城をおわれた宇都宮氏を助けている。また,義昭は自分の娘を宇都宮広綱と結ばせた。これにより,宇都宮氏は長く佐竹氏の盟友となるのである。さらに義昭は,結城白河氏に占領されていた陸奥南郷(福島県東白川郡地方)の奪還を決意して出陣し,棚倉に近い寺山城を攻撃するなどして,永禄8(1565)年には,南郷全域を支配するに至った。

 

 

 

 

 

 


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