徳川斉昭の生涯
  桜田門外の変

 「大獄」が一段落すると、幕府は12月15日、再度水戸藩に対し密勅返納を命じました。朝廷の命を受けたとし、3日以内に返納せよ、という最後通牒にも似た措置でした。これに対し評議の結果、水戸藩は返納を決定しました。しかし、26日には長岡宿(茨城町)に激派を中心とする士民約100人が集合、実力で返納阻止を企てました。すると安政7年(1860)1月15日、老中安藤信正は「二十五日を期して返納すべし。さもなければ嫌疑はいよいよ老公(斉昭)に及び、かつ違勅の罪に処せられ、水戸家は滅亡のほかはなかろう。(大意)」という強硬な意向を伝えてきました。このころ斉昭は返納やむなしとしながらも、反対派を納得させるために返納をなるべく引き延ばしたい、という意向でした。しかし、長岡勢は、返納阻止が斉昭の本意、と解釈して解散命令を無視し続けていました。ついに斉昭は「自分が返納やむなしと言っている心中は、士民にはなかなか理解してもらえない」(『水戸藩史料』)とし、長岡勢追討を指示するのです。

 一方では、長岡勢から離脱した関鉄之介、高橋多一郎などは江戸へ向かったと見られていました。慶篤は直弼へ長岡勢が江戸に向かった時の逮捕を要請したり、高松藩主松平頼胤には、夜間外出は控えるように、との警告をしています。事態は緊迫し、ついに3月3日、関鉄之介ら水戸浪士17名に薩摩藩士有村次左衛門を加えた18名は、江戸城桜田門外で井伊直弼を襲撃しました。

 もともと、この襲撃計画は前年12月に、薩摩藩士岩下万平、樺山資之から金子・高橋に持ちかけられるもので、当初、2月20日前後に計画されていました。襲撃に呼応して薩摩藩兵3000人が京都に出兵することになっていたが、島津久光以下薩摩藩庁は自重して動かず、単独で実行する結果となってしまったのでした。襲撃目標には、直弼のほかに高松藩主松平頼胤、老中安藤信正があげられており、そのうち安藤は文久2年(1862)1月、水戸浪士に坂下門外で襲撃され、重傷を負っています。

 

 

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