徳川斉昭の生涯
  日米修好通商条約調印

 下田に着任したハリスは強硬な姿勢で交渉を進め、安政4年(1857)10月には将軍謁見を果たしました。12月に入ると通商条約交渉も進み年末には妥結しました。その間、斉昭が「自分をアメリカに派遣してもらえれば、かの国に商館を建てて、そちらで貿易をする。その時には、浪人や農民の二、三男、罪人も連れてゆく(大意)」(『水戸藩史料』)という提案をしましたが、家老があわてて取り戻すという一幕もありました。もはや斉昭の言に耳を傾ける人物は幕府にはいなかったのです。

 条約は、勅許を待つばかりとなりましたが、老中堀田正睦が上京し、斉昭も義兄である太閤鷹司政通に「いわれなく打ち払うことはできない」との書状を送り、勅許への根回しを期待したものの、孝明天皇のかたくなな姿勢は変わらず、安政5年(1858)3月末堀田はむなしく江戸に戻りました。

 井伊直弼と斉昭の対立が深まる中、4月23日、井伊直弼は大老に就任、6月1日には紀伊慶福の将軍継嗣を決定しました。

 6月16日、清はイギリスとの戦争(アロー号事件)に敗北、不利な条件を盛り込まれた天津条約を締結させられました。この報は、すぐさまハリスにより幕府に伝えられました。直弼はあくまで勅許を得るまで調印延期を主張しましたが、最終的には交渉当事者の下田奉行井上清直らに交渉が行き詰まったときは調印やむなし、との言質を与えました。結局、翌19日に日米修好通商条約は調印されました。直弼は、ついで25日に将軍継嗣決定を諸大名に公表することを決めました。その前日、一橋派の尾張藩徳川慶恕は、斉昭・慶篤親子と福井藩主松平慶永を誘って登城、違勅調印の責任追及を口実に将軍継嗣発表を延期させようとしましたが、失敗に終わり、逆に7月5日に、慶恕、斉昭、慶永らには隠居や謹慎の処分が、一橋慶喜、徳川慶篤にも当分登城禁止という処分が下されました。

 

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