鹿島神宮文書
鹿島神宮   

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  鹿島神宮は、香取神宮とともに藤原氏の氏社として篤い崇敬を受け、摂関家の隆盛とともに大きく発展しました。また、藤原摂関家は鹿島神宮の荘園の本家(上級の領主)でもあったため、摂関家政所下文などの貴重な公家文書が含まれています。中世になると、鹿島神宮は武家の精神的な拠り所となりました。「武家護持の神」として厚く鹿島神宮を信仰していた源頼朝は、大窪郷(日立市)や橘郷(小美玉市、行方市)などを神宮に寄進しました。以後、中世を通じて、鹿島神宮の祭神である武甕槌神は武神として多くの武士の尊崇を集めました。鹿島神宮では、江戸氏、小田氏、佐竹氏らの依頼を受けて戦勝祈願等の祈祷をおこなったので、謝意を伝える書状(「巻数請取状」)も多数残されています。
  中世の鹿島神宮には、1,100以上の大小の神事があったといわれます。その中でも、1月の白馬祭(おうめまつり)と後述する七月大祭は重要な祭礼でした。「鹿島神宮文書(18巻)」には、こうした鹿島神宮の神事に関する史料も含まれています。

 ☆より詳しく知りたい方へ

   「鹿島神宮文書」にたどる常陸の中世 (PDF)

      「鹿島神宮文書」とは

    1 鹿島神宮の祭礼と常陸平氏

    2 鎌倉幕府の成立と鹿島神宮

    3 鹿島神宮領と行方の地頭たち

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