W徳川慶喜大政奉還する[1867・慶応3年]
   
1 大政奉還とは何か。
 
徳川幕府が保持し行使してきた日本国の統治権(=政権)を、朝廷に返還したこと。
   
   
2 大政奉還はどのように行われたか。 
  @ いつ。
 
  • 慶応3年(1867)10月14日
  A どこで。 
 
  • 御所 
  B だれが。
 
  • 徳川慶喜の命により、高家(こうけ:幕府の儀式などを司どった家)大沢基寿が参内、大政奉還の上表(じょうひょう)を朝廷に提出した。
  C 何をしたか。
 
  • 政権を朝廷に返す意見は以前にもみられたが、具体的な構想を示したのは土佐藩の脱藩士坂本竜馬であり、その実現に尽力したのが土佐藩の参政後藤象二郎である。

    坂本は後藤に、土佐前藩主山内豊信(容堂)をして、政権奉還の件を慶喜宛に建白させることを進言し、政権返上後の公議政体を基軸とする国家構想を描いてみせた。いわゆる「船中八策」である。

    構想の見事さに感嘆した後藤は、あちこち奔走して諸藩の有志にもそれを説く一方、容堂を説得し藩論の統一にも成功した。こうして政権返上と公議政体論がひとつの世論を形成しつつあった慶応3年10月3日、後藤は上京して容堂の建白書を老中板倉勝静に提出した。

    これをうけて意を決した慶喜は、10月13日在京40藩の重臣を二条城に集め大政奉還の決意を表明し、翌14日大政奉還の上表を朝廷に提出した。翌15日朝廷は、慶喜の参内をもとめ、小御所において大政奉還勅許の御沙汰書を渡した。
 
3 なぜ大政奉還したのか。 
 
  • 外交問題をめぐって政局は混乱し、社会は激動した。国の危機的状況が深まるなかで、外交方針が朝廷と幕府とでくいちがいをみせるなどのことが問題視され、強力な国家を創るためには、政権が一元化されなければならないと認識されるようになった。

    その方法としては3つの道が考えられた。第1は、幕府が反対勢力を駆逐して実権を回復すること、第2はその対局をなすもので、幕府を倒し朝廷を中心とした新政権を樹立すること、第3はその中間をいくもので、幕府を廃止して徳川家も一大名となり、大名の合議制によって国政を運営することである。

    幕府が単独で政権を維持していくことの困難さが明白になっていた状況下で、第1の道はすでに不可能であった。一方、薩長を中心に武力討幕の勢力は次第に強まり、第2の道は着々と準備されつつあった。

    そうしたなかで徳川慶喜は第3の道を選択し、政権を返上し、その後の大名の合議制による政権体制のなかで指導力を発揮することに期待をつないだのである。

    大政奉還はすぐれて高度な政治的判断であったといってよい。事実、慶喜が大政奉還の上表書を提出したその日、薩摩および長州両藩に討幕の密勅が出されていたが、慶喜の措置は、これら討幕派のでばなをくじくことになった。
   
  4 朝廷や外国の対応はどうであったか。  
 
  • 政権を返還されても、朝廷にはただちに政権を担当できる実力はなかった。朝廷は国家の大事や外交のことは、衆議を尽くして決めよと沙汰し、諸侯の上京を待って新しい権力機構を築く方針をうちだしたが、それまで実務的なことはやはり幕府にゆだねざるをえなかた。政権奉還の始末を外国公使に通告したのも幕府である。

    政権奉還後も、たとえば英国公使パークスなどは、江戸の開市とか新潟の開港期日の問題を幕府と交渉している。このあと王政復古の大号令発令から戊辰(ぼしん)戦争へと国内の政治状況は激変するが、この間外交関係において事態を大きくかえるような事件は起きていない。

    戊辰戦争の際にも、慶喜はフランス公使ロッシュの軍事的援助を拒否したし、英・米・仏・伊・蘭・普の6国は局外中立を宣言した。
   

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