V 徳川慶喜15代将軍となる[1866・慶応2年〜1867・慶応3年]
   
1 将軍
  @ 歴代将軍
   
 
 
1代 徳川家康 慶長 8年(1603)〜慶長10年(1605)
2代 徳川秀忠 慶長10年(1605)〜元和 9年(1623)
3代 徳川家光 元和 9年(1623)〜慶安 4年(1651)
4代 徳川家綱 慶安 4年(1651)〜延宝 8年(1680)
5代 徳川綱吉 延宝 8年(1680)〜宝永 6年(1709)
6代 徳川家宣 宝永 6年(1709)〜正徳 2年(1712)
7代 徳川家継 正徳 3年(1713)〜享保 1年(1716) 
8代 徳川吉宗 享保 1年(1716)〜延享 2年(1745)
9代 徳川家重 延享 2年(1745)〜宝暦10年(1760)
10代 徳川家治 宝暦10年(1760)〜天明 6年(1786)
11代 徳川家斉 天明 7年(1787)〜天保 8年(1837)
12代 徳川家慶 天保 8年(1837)〜嘉永 6年(1853)
13代 徳川家定 嘉永 6年(1853)〜安政 5年(1858)
14代 徳川家茂 安政 5年(1858)〜慶応 2年(1866)
15代 徳川慶喜 慶応 2年(1866)〜慶応 3年(1867)
   
 
A 将軍の役職・名称 慶喜公
  • 将軍の正式な名称は,征夷大将軍。本来は蝦夷征伐のために任命された臨時の官職である。建久3年(1192)に源頼朝が任命されてからは幕府の首長の職名・武門の棟梁の地位を表すものとされ,源氏だけが任命された。
B 将軍の任命
  • 朝廷から任命された。3代家光までは京都に行き,将軍宣下(せんげ=宣旨(せんじ=天皇の命を伝える公文書)を下す事)を受けた。4代家綱は幼少であったため京都に行けず,江戸城において勅使の下向(げこう=京都から江戸へ下る事)を受け,以後それが慣例となった。
      
  • 慶喜は,慶応2年12月5日,京都において将軍宣下を受け,正二位・大納言・征夷大将軍・右近衛大将に任命された。 
  C 居所
 
  • 江戸城
  D どの家から将軍は出ているか。
   
 
 
  1〜4代は, 徳川本家
 5代 綱吉は, 館林15万石の徳川家(3代家光の4男)
 6代 家宣は, 甲府藩主徳川綱重(3代家光の3男)の長男
 7代 家継は, 6代家宣の4男
 8代 吉宗は, 紀伊藩主徳川光貞の3男
 9代 家重は, 8代吉宗の長男
10代 家治は, 9代家重の長男
11代 家斉は, 一橋治済の長男
12代 家慶は,  11代家斉の次男
13代 家定は, 12代家慶の4男
14代 家茂は, 紀伊藩主徳川斉順の長男
15代 慶喜は, 水戸藩主徳川斉昭の7男
   
 
E   14代将軍家茂の死骸はどう保存されたか。死後しばらく江戸城内に置かれていたというが本当か。
 
  • 家茂は慶応2年7月20日,大坂城内で死んだ。喪が発せられたのは8月20日で,その間保存措置が講じられて(おそらく塩漬けにされたのであろう),海路大坂から江戸城に運ばれ,増上寺に葬られた。
  F 徳川慶喜が将軍になった経緯、理由
 
  • 14代将軍家茂が亡くなった時に,徳川一門には慶喜の他に有力な将軍候補者がいなかった。田安亀之助はわずか4歳で,前尾張藩主徳川慶勝も候補にはあがったが,すでに隠居の身でふさわしくないと判断された。
     
  • 慶喜は,まず慶応2年8月20日徳川本家の相続のみ承諾し,征夷大将軍に就任したのは12月5日であった。
   
2 徳川慶喜と京都
  @ 将軍がなぜ京都にいったのか。
 
  • 条約勅許問題の紛糾により政局の中心は朝廷,京都に移った。天皇は将軍に上京を要求し,攘夷を迫った。攘夷の実行に苦慮する幕府は,朝廷との間の調整の必要があった。
     
  • 慶喜は,文久3年10月26日入京後,朝廷の参与,禁裏御守衛総督・摂海防御指揮役に任命されたので,天狗党追討のために出陣した時と,数度大坂に下向した時以外は,常に京都にいた。二条城で将軍宣下を受けたのちも,それまでどおり京都に滞在し,将軍在職中は江戸に帰ることはなかった。
  A 将軍の職務
 
  • 将軍になった慶喜は,フランス式の幕府常備軍の編成,内閣形式に近い老中の事務分担制の採用などの幕政改革をすすめ,慶応3年5月には兵庫開港の勅許を得ることに成功した。
  B 将軍と朝廷との関係
 
  • 時の天皇孝明天皇は徹底した攘夷思想の持ち主で,かつ佐幕的な考えであったので,将軍慶喜には有利であったが,慶応2年12月25日に36歳で崩御(ほうぎょ),幼い明治天皇が即位すると,倒幕派に有利となった。 
  C 徳川慶喜の居所
 
  • はじめ東本願寺に居り,のち御池通り若狭藩屋敷に住んだ。慶応3年9月21日,内大臣に任じられたあと二条城に移った。 
  D 京都以外のどういう所へ行ったか。 
   
 
 
文久3年3月11日 賀茂神社,攘夷祈願の天皇・将軍に随行
文久3年4月11日 石清水(いわしみず)神社,攘夷祈願の天皇に将軍名代として随行
元治元年5月9日〜20日 摂津沿岸視察
元治元年12月16日 天狗党追討のため海津滞陣
慶応元年6月2日〜13日 大坂滞在
慶応元年6月21日〜7月5日 大坂滞在
慶応元年7月22日〜7月23日 大坂滞在
慶応元年8月 日〜8月14日 大坂滞在
慶応元年9月25日〜26日 大坂滞在
慶応元年12月13日〜21日 大坂滞在
慶応2年7月16日〜18日 大坂滞在
慶応2年7月22日〜23日 大坂滞在
慶応3年2月5日〜7日 大坂滞在,フランス公使と会談
慶応3年2月19日〜20日 大坂滞在,フランス公使と会談
慶応3年3月22日〜4月2日 大坂滞在,イギリス・フランス・アメリカ・オランダ各国公使と会談
慶応3年7月24日〜7月27日 大坂滞在,フランス・イギリス公使と会談
慶応3年12月12日〜
明治元年1月5日
大坂滞在
12月16日,イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・イタリアなど各国公使と会談 
慶応4年1月6日 大坂城脱出、8日海路江戸に向かう
   
 
3 幕末・明治維新期について。
  @ 江戸,京都,大坂,横浜,水戸等の状況
 
  • 江戸:慶応2年5月16日に14代将軍家茂が長州再征のため江戸を出発,あとには将軍がいない状況が続く。同年5月末から6月はじめにかけて,品川・四ツ谷・本所辺で打ちこわしが起こる。
     
  • 京都:朝廷を味方にして尊王攘夷・倒幕の実をあげようとする薩長勢力と,それを阻止しようとする幕府側とがせめぎ合う政局の舞台となり,反対派弾圧のための天誅(てんちゅう),殺戮(さつりく)が横行した。   
     
  • 大坂:慶応2年閏5月25日将軍家茂が大坂城に入り,以後長州再征の大本営とした。そのために米価高騰をもたらし,市中で打ちこわしが起こった。   
     
  • 横浜:安政6年6月2日から外国貿易が始まり,外国商人の商館や日本商人の店ができて開港場として栄えた。   
     
  • 水戸:慶応元年のころの水戸は市川三左衛門ら諸生党の天下で,3月25日には,武田耕雲斎らの首級が水戸城下に晒(さら)され,10月25日には美濃部又五郎ら17人が処刑された。慶応4年3月本圀寺(ほんごくじ)勢を中心とする尊攘派が水戸へ帰国、市川ら諸生派は水戸を脱出した。その後市川らは再び水戸に帰り、10月1日弘道館の戦いで敗れ,四散。11月25日,慶喜の弟徳川昭武が水戸11代藩主となった。 
  A 活躍した人物・藩・国
   
 
 
長州藩
(長門国・周防国)
桂小五郎(木戸孝允(たかよし))・高杉普作 ・井上馨・伊藤博文・大村益次郎・山県(やまがた)有朋
薩摩藩
(薩摩国・大隅国)
西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀(たてわき) ・黒田清隆
土佐藩
(土佐国)
武市瑞山(たけちずいざん)・坂本竜馬 ・中岡慎太郎・後藤象二郎
佐賀藩
(肥前国)
大隈重信・江藤新平
   
  B 主な外国人(外交、技術者、文化人等) 
   
 
 
イギリス オールコック(公使)・パークス(公使)・サトウ(通訳)・グラバー(商人)
フランス ロッシュ(公使)・ヴェルニー(製鉄所建設)・シャノアン(幕府軍事教官)
・ブリュネー(幕府軍事教官)
アメリカ ハリス(総領事)・ヒュースケン(通訳)・ヘボン(宣教師)
   
  C 外交、貿易(開港による影響等)   
 
  • イギリスとの貿易が80パーセントを占め,アメリカ、オランダがそれに次ぐ。輸出品は生糸,茶,銅器,海産物などで,輸入品は,綿糸,綿織物,毛織物,鉄器などであった。貿易は大幅な輸出超過で,そのため国内では物価が上昇した。輸出品の中心であった生糸を生産する製糸業ではマニュファクチュア(工場制手工業)経営が発達したが,その一方では機械生産の安価な綿織物が大量に輸入されたため,農村での棉作,綿織物業は圧迫された。
     
  • 流通面では輸出に生産が追いつかず,在郷商人が江戸の問屋を通さずに商品を開港地に直送したため,江戸の問屋を中心とする特権的な流通機構が崩れ,物価も高騰した。このため幕府は,万延元年に,雑穀,水油,ろう,呉服,生糸の5品は,必ず江戸の問屋を経て輸出するように命じたが,効果はあがらなかった。   
     
  • また日本と外国との金銀比価が違ったため,多量の金貨が一時海外に流出した。幕府は貨幣を改鋳してこれを防ごうとしたが,改鋳によって貨幣の実質価値が下がったので物価上昇に拍車をかけることになり,庶民の生活は圧迫された。そのため貿易に対する反感が高まり、激しい攘夷運動が起こる一因ともなった。 
  D 新撰組   
 
  • 幕府は浪人の不満解消のため浪士組を組織し,文久3年に京都に上らせ,京都郊外の壬生村(みぶむら)に屯集させた。その指導者の一人清川八郎は,尊攘派と気脈を通じて分裂し,京都に残った近藤勇・芹沢鴨らは,京都守護職松平容保の支配に属して新撰組を結成した。その後内部対立により芹沢鴨は斬られ,以後近藤勇・土方(ひじかた)歳三が実権を握り,尊攘・倒幕派を弾圧した。 
  E 主な事件
   
 
 
嘉永6年(1853) 6月 ペリー来航
安政元年(1854) 3月 日米和親条約締結
安政5年(1858) 6月 日米修好通商条約調印
9月 安政の大獄始まる
万延元年(1860) 3月 桜田門外の変
文久元年(1861) 5月 高輪東禅寺の英公使館,浪士に襲撃される(第一次東禅寺事件)
文久2年(1862) 1月 坂下門外の変
4月 伏見寺田屋騒動
8月 薩摩藩士,生麦村で英人を斬る(生麦事件)
文久3年(1863) 5月 長州藩,外国船を砲撃
7月 薩英戦争
8月 公武合体派クーデタ(8月18日の政変)
元治元年(1864) 3月 天狗党,筑波山挙兵
6月 新撰組,池田屋を襲う(池田屋事件)
7月 禁門の変
8月 第1次長州征伐
慶応元年(1865) 4月 長州再征発令
慶応2年(1866) 1月 薩長連合成る
7月 将軍家茂,大坂城中で没
8月 慶喜,徳川宗家家督相続
12月 慶喜,将軍に補任される
慶応3年(1867) 5月 兵庫開港勅許
8月 「ええじゃないか」起こる
10月 大政奉還,討幕の密勅下る
12月 王政復古の大号令
慶応4年(1868) 1月 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争起こる)
1月6日 慶喜,大坂城を脱出,8日海路江戸に向う
3月 五箇条の御誓文
4月 討幕軍江戸入城,慶喜水戸へ退去
9月 明治と改元
明治2年(1869) 5月 新政府軍,函館総攻撃開始,榎本武揚(たけあき)降伏
(戊辰戦争終る)
6月  版籍奉還
明治4年(1871) 7月 廃藩置県
   
  F 社会状況(ええじゃないか、打ちこわし等)   
 
  • 開国にともなう経済の混乱と、政局をめぐる抗争は、社会の不安を大きくし、世相を険悪にした。「世直し」の声は百姓一揆でも叫ばれ、長州征討の最中に大坂や江戸で起こった打ちこわしには、為政者への不信がはっきりと示されていた。慶応3年に京坂一帯に熱狂的に起こった「ええじゃないか」の乱舞は、宗教的形態をとった民衆運動として、討幕運動にも影響を与えた。
   

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