(2)突然の国替え命令

  関ヶ原の戦いは徳川方東軍が勝利し,論功行賞で反徳川の大名は改易や減封など容赦ない処分を受けた。しかし佐竹氏には何のお咎めもなかった。慶長7(1602)年春,義宣は上洛のため水戸を発った。5月8日,義宣は家康から秋田への国替えが命じられたのである。義宣は早速,水戸にいる家老の和田昭為に詳細な指示を与えている。そして6月13日に水戸城を,15日に太田城を明け渡した。7月27日には,秋田,仙北の地が正式に与えられた。7月29日,義宣は93騎の供とともに,伏見から水戸にもどることなく秋田に下っていった。

  国替えの経路については,東海道を下り江戸に寄って奥州・羽州街道を北上した説や琵琶湖を渡って日本海を船で北上したとする説,伏見から陸路を通って直行した説があり定かでないが,9月9日(17日という説もあり)には,前安東氏の居城,湊城に入った。

  一方,太田城にいた義重は,太田城を出て八槻(福島県南白川郡棚倉町)に至り,その後秋田の六郷城(秋田県仙北郡美郷町)に入った。  

  

 

 

 

 

 

 


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