学校造営係総司や用達となり,検地や弘道館建設など藩政改革を推進しました。斉昭の失脚に伴い免職となりましたが,復職後は安政の改革にも参画しました。改革派の重鎮として藤田東湖と伴に「水戸の両田」と称されましたが,安政の大地震で圧死しました。