天狗党事件
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元治元年(1864)3月,水戸藩尊攘派のなかでも過激派であった藤田小四郎・竹内百太郎らは,湊,小川,潮来などの郷校に屯集する下級藩士・郷士・村役人・一般農民などを糾合,町奉行田丸稲之衛門を首領として筑波山で挙兵,「天狗党」と称しました。この天狗党には全国から尊攘運動有志が集まり,1000人以上を数えたといわれています。その後,日光東照宮を参詣,下野国太平山に屯集,5月に再び筑波山に戻ります。この間,田中愿蔵は別働隊を組織して栃木町や真鍋宿などに放火,軍資金調達を行い,悪評を高めました。このような状況下,幕府は天狗党に対する取り締まりを周辺の諸藩に命じました。これに応じた水戸藩内の反天狗党,反尊攘勢力である市川三左衛門・朝比奈弥太郎らの諸生党の人々は,江戸に上って藩政を掌握,天狗党追討を決定しました。一方,武田耕雲斎,村田理介,榊原新左衛門らの尊攘派は,6月から7月にかけて大挙して上京,藩政の主導権を再び諸生党から奪い返します。しかし,この段階では,幕府・諸藩・水戸藩諸生党連合の追討軍との天狗党の戦いが,下妻・高道祖で始まっていました。この下妻・高道祖戦争は天狗党の勝利となり,敗れた水戸諸生党は,手薄になっていた水戸城に戻り,これを占拠しました。このような混乱に水戸藩主徳川慶篤は,その収拾のために自分の名代として宍戸藩主松平頼徳を派遣しましたが,これに多数の尊攘派が同行,「大発勢」といわれました。以降,元治元年9月を中心に,常陸国内を舞台としては天狗党と反天狗党勢力との戦いが繰り返されることになります。10月,天狗党勢は幕府追討軍に那珂湊付近の戦闘で敗れ,翌11月,800人あまりが京都の一橋慶喜を頼って西上を始めます。武田耕雲斎を総裁として幕府や諸藩の追討軍と戦いながら,下野・上野・信濃・飛騨を通り,越前国新保に至り,ここで金沢藩に降伏,翌年敦賀において主だったもの350人余りが斬罪に処されました。この天狗党事件には,それまで近世的な秩序のなかにとじ込められていた一般民衆が,天狗党側あるいは反天狗勢力として参加していきます。幕府体制の崩壊前夜という時代の流れのなかで,一般民衆が歴史の表舞台に登場した最初の事件でした。

 

 

 

 

 

 

 

 


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