佐竹氏の祖と歴代当主の数え方については,次の4つの説がある。
T @義光A義業B昌義C忠義D隆義…22義宣
U @義光A義業B昌義C隆義…21義宣
V @昌義A忠義B隆義…20義宣
W @昌義A隆義…19義宣
まず佐竹氏の祖は誰かということであるが,古来より秋田では(源)義光を佐竹氏の祖とする考え方,茨城では(佐竹)昌義を佐竹氏の祖とする考え方があった。この問題は,武士として誰が最初に佐竹郷に生活基盤を置き,経済的権益をも獲得したかという点にある。源義光,源義業の時期には,経済的基盤は常陸国奥七郡にあったものの生活基盤はあまりなく,佐竹郷に土着定住まではしていなかったように考えられる。まだ,京都あたりに生活基盤があり,経済的利益は地方から得るといった間接的支配だったのではなかろうか。佐竹昌義の代になって,初めて久慈郡佐竹郷に土着し馬坂城に住み,常陸国奥七郡の直接的支配に乗り出したとみることができる。よって佐竹氏の祖はやはり佐竹昌義と考えられる。
次に佐竹昌義の後継者として,その子忠義の地位を佐竹の当主として認めるか否かという点である。
諸資料からまとめてみると,忠義については佐竹氏の正統からはずしている系譜がみられ,かつ,忠義自身も源頼朝による佐竹攻めの折,府中(石岡市)の大矢橋で上総広常によって殺害されたとか金砂合戦で戦死したとかいう説があり定かではない。弟の佐竹隆義に家督を譲っているとの所伝を重視すれば佐竹2代当主としてみてよいのではないかと考えられる。むしろ,忠義が一時的にも昌義の後嗣となったが,弟隆義に家督を譲り,自分は常陸大掾となり,隆義は太田城を根拠として奥七郡を治めたとするのが自然であろう。
|