茨城の大地主 |
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河内郡阿波村(現稲敷市)竿代家(模型) |
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明治〜大正期の茨城県には,5町歩以上の耕地を有する地主が約7000人いました。その多くが在村の中小地主でしたが,なかには耕地50町歩以上を所有する大地主も100余人含まれていました。大地主の過半数は明治中期頃までに土地所有を拡大して大地主となりましたが,農業以外の醤油醸造業,酒造業,肥料商,金銭貸付業などの有力商人が大地主を兼ねることも数多くみられました。これら大地主は,開墾,耕地整理,産業組合などを積極的に推進するとともに,近代茨城の政治・産業・社会などあらゆる分野で指導的な役割を果たしました。
写真模型の竿代家は、明治初期に阿波村外5ヶ村連合戸長を勤めた当地域の豪農でした。自ら積極的に農業に従事する精農型地主で、明治末の小作米が400俵あったと伝えられています。大正〜昭和初期には、時の当主・竿代文蔵が私財を投入して、霞ヶ浦の「甘田入」干拓120町歩を完成させました。
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