風土記は,和銅6(713)年に出された詔により,それぞれの国司が国内の風土についてまとめたものである。この詔には,
1 郡・郷の名前に好い字をつけよ
2 郡内の特産品を列挙せよ
3 土地の地味の肥沃な状況を記せ
4 山川原野の名前の由来を記せ
5 土地の伝承を記せ
とあり,全国からこの内容に従って報告書を提出させた。しかし,現存する風土記はわずかに常陸・播磨・出雲・豊後・肥前の5か国のものだけで,それも完全な形で残されているのは出雲だけである。
「常陸国風土記」の成立は,養老年間(717〜724)に完成したとされている。その編者には,その当時,常陸国の国司として赴任していた藤原宇合があげられる。また,協力者としては,高橋虫麻呂の存在を考える説が有力である。この藤原宇合は,大化の改新の中心人物となった中臣鎌足の孫にあたり,父は律令体制を確立させた藤原不比等であった。だから,中央の考えた風土記作成のねらいは,宇合も充分に理解していたはずである。それに,宇合は,奈良時代の漢詩集である「懐風藻」にも詩がのるなど,当時を代表する文人であることから,「常陸国風土記」の前文にみられるような華麗な文章表現も宇合説の一つとなっている。
さらに,井上辰雄氏は,藤原鎌足(中臣鎌足)の先祖が常陸国の中臣氏から出たのではないかと考え,そのため宇合は「常陸国風土記」の編纂に情熱を燃やしたとされている。確かに,藤原氏の氏神である春日大社の筆頭祭神は,建御賀豆智命(鹿島神)で,鹿島神宮と春日大社の関係には強いものがある。しかも,鹿島郡は神の郡として,中臣氏などの司祭者の勢力下に入っていたので,大変興味深い考えだと思われる。なお,「常陸国風土記」には仏教に関する内容が見られず,全体に神々の記述が多いのも特色の一つである。これに対し,「出雲国風土記」では寺院の記載が多く,際だって対照的だった。もちろん,編纂された年代が異なるので,その内容についても時代差があるのかもしれないが,編纂者の意向が強く現れているとも思われている。
☆今に伝える「常陸国風土記」の世界
・沼尾の社(国指定史跡)
・坂戸の社(国指定史跡)
・高来の里
・飯名の社
・信筑の川
・薩都の里
・椎井の池
・仏の浜(県指定史跡)
・密筑の里
・沼尾の池
・国府
・長幡部の社
・曝井
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